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私というドラマを生き、気づきという愛を奏でる|ノンデュアリティと非二元と悟り

A Course in Miracles(奇跡講座)をベースに非二元とこの世界の摩訶不思議さを生きるブログ
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たかがストーリー、されどもストーリー

こんにちは^^中村です。

ストーリー、ストーリーというけれど、、、



苦しんでいる「私」いない、苦しみはただのストーリー

この言葉で私がいないという解放が起こり、楽になる方もいるでしょう。

それはそれでOKですよね。

でもこの概念に苦しむ方もいます。

そう、苦しんでしまうのは概念としてでしかとらえられないからです。

概念としてとらえている時、“ストーリーだから” “現実じゃないから” “「私」はいないから”というストーリーにはまり込んでいるパラドックスが起きています。

別の言い方でいうと、それらを煙幕にしているエゴの罠にひっかっています。

ですから、苦しみから解放されるためには、そのエゴの罠を見つけるほうが近道です。

エゴの罠はストーリーの中にありますから、ストーリーに目を向ける必要があります。

ストーリーにあえて「私」として入り込み、エゴの罠を見つけることが必要になってくるんです。

なので苦しみを感じているのなら、“ストーリーだから” “現実じゃないから” “「私」はいないから”というストーリーは、一旦考えるのをやめるのがいいと思います。

そこに拘っているかぎり、罠にはまり続けているわけですから。

“ストーリー” “「私」はいない”そんなことは関係なく、「苦しいもんは苦しんだ!」と苦しみを感じるほうが大切だと思います。

たかがストーリー、されどもストーリーなのです。

ストーリーであるという意味は?



空からすると苦しみは「私」という実体のないものがストーリーとして経験しているだけです。

これは間違っていません。

なので、「苦しみはストーリーにすぎません、以上!!」で終わることも間違ってはいないと思います。

けれども、ストーリーであること、幻想であるということは、“それらにすぎない”と解釈することではないと私は感じています。

ストーリーというのは、「ストーリーであるにすぎない」「幻想でしかない」という意味ではなく、ストーリーなのだからこそ、苦しむこと、悩むこと、怖れることをしてもいいということだと思います。

そしてそれが非二元(ノンデュアリティ)の二つでないものという意味の本質だと感じます。

苦しみや悩みがあるのは、それを持っていることはいけないことだという無意識の思い込みが前提にあります。

でもそもそもそれらはストーリーなのだから、苦しみの中にいることは、悩みを抱えていることは、不安でいることは、悪でも善でもなく、それらがそこに在ること or それらがそこにないこと、に対するジャッジは有り得ないということです。

それらにすぎないと解釈するから、苦しんでいることや悩んでいることが、「ストーリーから抜け出せないダメな私」というストーリーを強化させてしまっているように思えます。

幻想(夢)から覚めるには?



幻想(夢)から覚めるには、ストーリーをストーリーだと見破る必要があります。

となると、ストーリーに向き合わなければ、見破ることもできません。

ある日なんの知識もなく、ふいに一瞥が訪れる方もまれにいることは確かです。

ですが、そのまれにいる方の体験を自分も得ようとすることに無理はあるということは分かるはずです。

だって既にあなたは“探求”をしているのですから。

そうは言いつつ、ちょっとだけそういう方が羨ましいと感じること、実は私もありました^^

自分が空を概念でしか捉えれないという今の立ち位置を認めるならば、「私」はいないという空の視点のみからの見方はある意味、何も意味をなさないかもしれないということを感じれると思います。

とはいえ、この世界は幻想、「私」はいないという概念を顕在意識で知ることは、ストーリーから目覚めるきっかけにもなりえるので、素晴らしい知識でもあるわけです。
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