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私というドラマを生き、気づきという愛を奏でる|ノンデュアリティと非二元と悟り

A Course in Miracles(奇跡講座)をベースに非二元とこの世界の摩訶不思議さを生きるブログ
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「私」を幸せに生きることは可能なの??

こんにちは^^中村です。

この世界が恐怖(エゴ)でできているのなら、私の悩みはなくならないのでしょうか?

この世界が恐怖(エゴ)でできているのなら、この先ずっと虚無感を抱えて生きていかなければならないのでしょうか?

この世界が恐怖(エゴ)でできているのなら、「私」は幸せになれないのでしょうか?

あなたは幸せになってもいい



この世界は恐怖でできている、確かにそうです。

でも忘れていはいけないのが、それは幻想であって実体がないということです。

エゴには私たちに実体(現実)だと思い込ませることしかできないという限界があります。

なぜなら、私たちは神(一なるもの、愛)から離れたことはなく、分離したと思い込んでいるだけだからです。

ということは、本当の本当のところ私たちは、「愛」の中にいるわけなんですね。

ただそれを忘れているだけであって、もう既に愛の中にいます。

私たちに必要なのは、恐怖という幻想(夢)から覚めることであって、問題を解決しないといけないとか物質的な成功を願ってはいけないとか、そことは全く次元が違うわけです。

「私」の幸せを体現しながら、目覚めることをしてはいけないなんてことは、どこにも書かれていません。

むしろ“何でもあり”です。

でもどこかで私たちは、「悟り」「覚醒」「非二元(ノンデュアリティ)」と幸せとは両立しないような感覚を抱いていることも多いです。

はっきりと分かっていなくても、うっすらと両立はしない or してはいけないような感覚を持っている場合も多いです。

それこそストーリーの中で作り上げてしまった「悟り」「覚醒」「非二元(ノンデュアリティ)」のストーリーでしかありません。

「私」の幸せを体現しながら目覚めることを禁忌しているのはあなた自身の罪悪感です。

禁忌こそ罪悪感の表れ



禁忌をしてしまうのは、どこかで幸せになることへの抵抗、幸せになっちゃいけない「私」がいるからです。

これがまさにこの恐怖の夢に縛られている証拠とも言えます。

私たちがこの世界をつくってしまったのは、恐怖の罪悪感から逃れるためでしたよね。

恐怖の中にいるのですから、何もしなければ私たちは恐怖の夢に縛られているのが普通の状態ということです。

「悟り」「覚醒」「非二元(ノンデュアリティ)」に光を見出すのは、この恐怖の夢から覚めることができることを無意識に知っているからだと思います。

だからといって、「悟り」「覚醒」「非二元(ノンデュアリティ)」に至るまでの道を不幸で苦しい道にする必要はどこにもない、ということなのです。

輝いている真の生命



真の生命の私たちは輝いています。

ですから、「苦しみ」「虚無感」「怒り」でもがいているのは、幻想(夢)にどっぷりつかりすぎて、真の生命を忘れているだけです。

忘れているだけで、私たちは既にそこに在るわけですから、誰でもそれを思い出す(目覚める)ことはできます。

そして思い出すまで苦しみにいることは必要ではありません。

悟り、覚醒、非二元(ノンデュアリティ)と「私」の幸せが両立しえないと思っているのなら、それはあなたのストーリーなのです。
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