非二元から純粋非二元へ~奇跡講座を通して真に目覚める~

A Course in Miracles(奇跡のコース)は純粋非二元(Pure Nonduality)を通して私たちを本当の悟り(覚醒)に誘います
0

純粋非二元からみる非二元(ノンデュアリティ)の気づきの意識とは?

気づきの意識とは?

こんにちは^^中村です。

無邪気な思いが生み出した意識



非二元(ノンデュアリティ)の気づきの意識が真我ではないとしたら、それって一体何??ということになるのですが、気づきの意識というのは、神から最初に分裂した原初の意識のことです。

あるとき、「もしわたしがちょっとだけ冒険をしたらどうなるかしら??」と無邪気な思いがキリストにあらわれたようにみえました。

それは赤ちゃんがが「これはなに??」と色々な物に好奇心を示すのと同じくらい無邪気な思いです。

この瞬間、意識が生まれ、この原初の意識が非二元(ノンデュアリティ)でいうところの気づきの意識(純粋意識)と呼ばれるものとなったのです。

神(真我)からの第一の分裂



ただただ、ただただ永遠の「恒常」だけで、それは欠けることのない一体(oneness)というものだけが在ったのですが、ものすごくわずかな、かすかな一瞬に、キリストのほんの小さな側面に、この一体(oneness)とは違う無邪気な好奇心が現れたかにみえたのです。

この無邪気な好奇心を奇跡講座では「小さな狂った考え」と言っています。

そしてこれが神から「第一の分裂」になりました。

奇跡講座ではこの気づきの意識のことを「決断の主体」と言っています。

気づきの意識と神(真我)の関係



気づきの意識は真我ではないですが、真我と非常に近い位置にあります。

その為、気づきの意識に在るということは、真我の気配というか、それを感じることができます。

なので、とても幸せな感覚、安心感な感覚を感じることができるのです。

よく非二元で「気づきの意識を深めていく」という表現が使われていますが、純粋非二元では神のおられる場所に行こうとする行為にあたります。

ですので、非二元での気づきの意識を深めていくというのは、純粋非二元(神)に通じています。

ですが、気づきの意識が真我だと思っていると、神には到達できなくなり、袋小路に迷い込んだような閉塞感が生まれてしまいます。

「第二の分裂」「第三の分裂」が意味しているもの



第一の分裂が起きたということは、「第二の分裂」「第三の分裂」、、、が起こるのかな?と疑問に思われたなら正解です^^

この第二、第三、、、の分裂をたどっていくと、宇宙の起源、私たちの肉体の起源に行きつくんです。

次回は第二、第三、、、の分裂についてお伝えしていきます。

一つ記憶に留めておいていただきたいこととして、この分裂はまだ形而上であって、物理的な形を成していないということなのです。

これが何を意味するのかは、後々明らかになっていく大切な事柄なのですが、もう少し後のご説明になります。

この分裂はまだ形而上であって、物理的な形を成していないということを記憶しておいてください。

0

非二元と純粋非二元(pure nonduality)の違いとは?その3

こんにちは^^中村です。

非二元と純粋非二元(pure nonduality)の違いをポイントをしぼってもう一度分かりやすく整理したいと思います。

下の文章を図でまとめてみました。

非二元と純粋非二元の違い

非二元とは?



・色(私たちが現実だと思っている私たちが生活している場所)と空(真我)は区別できないものと位置付けています。

・般若心経の「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」の「空」が私たちの真我、ようするに正体だと言っています。

・「空(真我)」が「色(私たちが現実だと思っている私たちが生活している場所)」を創りだしていると言っています。
※確かに空(真我)が色(私たちが現実だと思っている私たちが生活している場所)を創りだしてはいるのですが、純粋非二元からみると、空は真我ではないのです。

純粋非二元とは?



・神だけが実相(真我)でありそれ以外はすべて幻想。

・非二元でいう真我(般若心経でいう「空」や気づきの意識、純粋意識)は純粋非二元では分離した結果として生み出された意識だと位置づけています。

・神(真我)は色(私たちが現実だと思っている私たちが生活している場所)というものに一切関知していません。
※つまり神(真我)は色(私たちが現実だと思っている私たちが生活している場所)を創りだすことは一切していないということなのです。

非二元と純粋非二元のまとめ



私は非二元と純粋非二元を区別していますが、きっちりと線引きがなされているわけではないと思います。

聖霊は私たちが「二元」「半二元」「非二元」「純粋非二元」の4つを必ず通るといっています。

気づきの意識が私たちの本当の正体ではない。

この幻想の世界が真実(真我)からつくられているのではない。


ということに気がつき、気づきの意識を深めていくのであれば、純粋非二元という言葉にこだわらなくとも、私たちの魂は私たちが行きたい場所に向かうはずです。

パパジがみていた非二元の向こうがわ



先ほど、非二元と純粋非二元は、きっちりと線引きがなされているわけではないと申し上げました。

それはプンジャジ(愛称パパジ)と呼ばれる私もとても大好きな覚者がこう言っていたからです。

パパジは気づきの意識が私たちの正体ではなく、入口だと知っておられたのかなと思っています。

あなたが一なるモノのなかで独り在るとき、あなたは自分自身を「一」と数えることはない。

なぜなら、そこに「一」と関係する「二」が存在していないからだ。

「一」が「一」として存在できるのは、そこに関係性をもつ「二」が存在するからなのだ。

もし「二」がまったく存在しなければ、「一」も存在することはできない。

<省略>

あなたは「一」も「二」も存在できない場所に入った。

「一」が消え去るとき、それとともにすべてが消え去る。

そこでは「一」や「二」という概念は存在できない。

あなたが「一」以外の何かについて考えないかぎり、「一」についてさえ考えることもできないのだ。

すべての二元対立は一元から生じるが、その一元にさえ執着してはならない。

私は以前あなたに、拒絶できるものはすべて拒絶しなければならないと言ったはずだ。

この「一」はあなたが拒絶しなければならないものの一つだ。

(覚醒の炎-プンジャジの教えp288)


気づきの意識、純粋意識とは?



では、気づきの意識、純粋意識が真我ではないとすれば、気づきの意識(純粋意識)って何でしょうか?

気づきの意識がこの物理的な宇宙をつくりましたが、それが私たちとどういった関係があるのでしょうか?

次はそういったことについてお伝えできたらなと思います^^

0

非二元と純粋非二元(pure nonduality)の違いとは?その2

こんにちは^^中村です。

さて「非二元と純粋非二元(pure nonduality)の違いとは?その1」からの続きです。

こんなこと書いてあったっけ??



「相変わらず分厚い本、、、、(´。` )」と思いながら、届いた「神の使者」を読み始めると、「えっ!こんなこと書いてあったけ??」というような内容がどんどんでてきました。

6,7年前はただただ読んだ気になっていたことが思い知らされました。

そして本を読み進めていくうちに、行き詰まり感を解消するヒントも書いてありました。

拭われていく私の中の不安



二人のアセンデットマスターの一人であるパーサのこの言葉です。

一なるもの、という考え方はべつに独創的じゃないわ。

でも、それなら自分は何と一つなのか、と問いかける人はあまりいない。

問いかけた人も大部分は神という答えを出すのだけれども、そこで「この宇宙は聖なるものによっていまあるかたちで創られた」と想定してしまう。

この想定は間違っているし、そう考えてしまうと、ブッダのように心を完成させた賢者でさえ、恒久的な意味で神に到達できなくなります。

そう、二元性の波動をつくりだす心とは一つになれるでしょう。

その心はすべての次元を超越した無という場にあっては、完全に時空と形のシステムの外にある。これが非二元性の論理的で妥当な帰結なのだけれども、それでもまだ神ではない。

それどころか行き詰まりの袋小路よ。

あるいは始まりの終わりと言うほうがあたっているかな。

仏教は世界で最も倫理学的に洗練された宗教だけれど、それゆえに神という問題を扱えない。

だから、あなたがたがブッダと呼ぶ身体のなかにブッダがあったとき、彼は神の問題を取り上げなかった。

わたしたちが非二元と純粋非二元を区別する理由もそこにあるの。

ブッダが「わたしは悟った」と言ったのは、自分は幻影に参加しているのではなく、自分がすべての幻影をつくりだしていると気づいた、という意味だったのよ。

でも、そこからもう一歩進んで、すべての幻影をつくりだしている心がそれ自身と完全に対立して神の側につかなければ。

もちろんブッダは優れた段階に到達した人だからそこに気づいて、すぐにJ(イエス)と同じ悟りに進んだわ。

でも、それは世界に知られていない生涯での出来事。

(神の使者p55~56)


この部分を読んだ時「そっかぁ、、、私の中に育ってしまった違和感はある意味正常な反応だったんだ、、、」と思えることは「何かを知りたいというエゴの罠かもしれない」という不安が拭われていきました。

理解できない非二元と純粋非二元の違い



ただ本に書いてある非二元と純粋非二元の違いがよくわかりません。

よく分からないというよりは、「ということは、こういうことなの?」という自分の理解に自信が持てなかったのです。

間違って理解しているのではないか?というのと、慣れ親しんだ非二元の概念、そしてそれが絶対的な真実だと思っていた私には、「ということは、こういうことなの?」と理解することは、非二元に間違いのラベルを貼ることになってしまうことだったからです。

ということは、ガンガジが言っていることは違うの?

ということは、アジャシャンティが言っていることは違うの??

「いやいや、そんなわけはないでしょう、、、、」とグルグル、、、。

ルパート・スパイラはどうなんだろう?

ネットで調べてみると、ガンガジは本当の意味では覚醒していないと説いているブログもみつかりました。

神の使者の本にもこんなように書いてあります。

世界的に有名な生涯で悟りに達したと思われている人たちがじつはそうではないことが多いんです。

ほんとうに霊的な完成に近づいた人たちの多くは指導者になろうなんて思わないから。

<略>

それでも人は幻想が真実からつくられていると誤解する。

だから幻想を捨てようとせずに、正統性を持ちこもうとする。

(神の使者p56,58)


非二元と純粋非二元(pure nonduality)の違いをただ知りたい



ただ私の中では、「あの人は覚醒していない」「あの人は覚醒している」というように考えることは、自分の中のエゴを納得させるだけで、自分の行きたい場所(目指すべき場所)に行くことはできないというのは、感じていました。

なので、シンプルに非二元と純粋非二元の違いを知ることを求めました。

600ページにものぼる神の使者を何度もよみながら、ノートに大切だと思われることを書き出し、理解するようにつとめました。

神の使者は「A Course in Miracles(奇跡講座)」の入門書として知られていますので、当然「A Course in Miracles(奇跡講座)」を読むことになります。

英語版はシェークスピア調に書かれており、ネイティブでない私にはかなり難しい(家の本棚に眠っています(^^;)ので、日本語版を読むことにしました。

湾曲して理解してしまっては元も子もないので、たくさんの翻訳本が出ていますが、奇跡のコースの教えを忠実に守ることを目的としている平和のための財団の正当な本を読むことにしました。

そうして読み進めていくと、非二元でいう気づきの意識や純粋意識と呼ばれているものは肉体をもっていない「心」であって、私たちの本当の存在の前段階ということが分かります。

つまり、気づきの意識(conscious awareness)は私たちの正体(大元)ではないことなのです。

非二元は私たちの正体は気づきの意識や純粋意識と呼ばれるものだといい、それは、刻一刻と変わる私たちの経験の全体として現れているものだといっています。

純粋非二元は、気づきの意識や純粋意識は、神から分離したと思い込んでいる「心」であり、神だけが実在する現実だといっています。

長くなりましたのでこの辺で^^

「非二元と純粋非二元(pure nonduality)の違いとは?その3」へ続く

0

非二元と純粋非二元(pure nonduality)の違いとは?その1

こんにちは^^中村です。

非二元と純粋非二元の違い



非二元と純粋非二元の違いの詳細は後からにして、今はその違いを簡単にご説明したいなと思います。

非二元(nonduality)とは?



非二元は「二つではないもの」として認識されています。

よく例として般若心経の「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」が用いられます。

これは「事象は空(くう)と異なるものではなく、空(くう)は事象と異なるものではない。空(くう)はまさに事象であり、事象はまさに空(くう)である。」という意味です。

つまり「色と空は区別できないもの」と位置付けています。

純粋非二元(pure nonduality)とは?



「神」だけが真実(実相)でこれ以外は(すべて幻想で)なし!
(※ここの「神」は例えばブッタなど、ご自身がしっくりくるものでOKなんです。なので何か特定の宗教ということは決してありません。)

これだけなんです。

空と色があやふやではなく、はっきりと区別しています。

はっきりとした一元として伝えられています。

ただ大切なこととして非二元の「空(真我)」は純粋非二元では「空(真我)」ではありません。

さて、詳しい非二元と純粋非二元の違いをお伝えする前に、どうして私が純粋非二元にたどり着いたのかのストーリーをお伝えしたいなと思います。

一瞥体験後



一瞥体験までの「私」のストーリーはこちら

2013年の1月に一瞥体験をしてから、日々の感情の波が激しさを増し、またこの体験は思考で理解できることではなかったので、思考と感情と身体の感覚が付いていかず、しばらくはかなり苦しかったです。

ただ、彷徨う探求は終わりを告げていましたので、自分なりにその一瞥の体験を深めていました。

体験を深めるというのは、気づきの意識(conscious awareness)に寄り添うことや思考や感情をみつめることです。

ガンガジさんやアジャシャンティさんの動画や本をみて、自分なりに体験を深めていきました。

覚者に会うという手段もあったと思いますが、自分にとってはあまり魅力を感じなかったので、自分なりに日々を過ごしていたのです。

このあまり魅力を感じなかったということについては、また折をみて書いてみたいなと思います。

さて話を戻します。

自分なりにでしたけど、数年かけて体験を深めていくと、激しく暴れていた感情や思考が少しずつ落ち着きを取り戻していきました。

私が人生で知りたかったこと



そして私が知りたかった色々なことが分かるようになってきました。

一番は「私とは何か?」ということがわかりました。

肉体が自分自身ではないということを経験的に知ることができたのは、とっても大きかったです。

あとは例えば、「思考と感情がどこからやってくるのか」「すべてが自分というのはどういうことなんだろうか」そんなことが自然に分かるようになっていきました。

それはずっと小さいころから疑問に感じていた「生きることとは?」「命とは?」ということにつながっていたので、その疑問が解けていくことは、すごく楽しいことでした。

歯磨きと同じように、、、



なので、この体験を深めることを歯磨きと同じように日常生活に取り入れていました。

もちろん、うまく出来ない事も多々ありますし、思考や感情に翻弄されて、自分の正体が気づきの意識側だということを忘れてしまうことも多いです。

けれども小さな一歩一歩を進んでいきたいと思っていたのです。

あるときから感じ始めた行き詰まり感



そんな状態が何年も続き、ずっとこの先もこうやっていくんだろうなと思っていたのですが、ある時期から行き詰ったような感覚を感じるようになっていきました。

最初は「エゴの仕業なんだろうな、、、」「エゴの罠なんだろうな、、、」と思っていたのですが、違和感は段々大きくなっていきました。

決定的になったのは、母の癌の再発と私自身の身体の痛みでした。

「この世界は幻想」です。

「私はいない」です。

体感として自分自身は気づきの意識側であって、肉体ではないことがわかっていましたが、言葉にして表現するのが全くできないのですが、行き詰り感は私自身の心を大きく圧迫し始めていました。

それに日々、思考と感情を解放をすることを日々行っていたのですが、小さな、本当に小さな感情のゆさぶりにも違和感を感じていたのです。

私が助けを求めたもの



違和感を無視できなくなった私は、その答えをみつけなくてはいけないなと思っていました。

そこで私が助けを求めたものは「祈り」でした。

自分の中にあるものに対しての「祈り」でした。

気づきの意識の自分に対しての「祈り」でした。

そうして答えを待つことにしたのです。

もしその答えが「覚者に会う」ということであれば、私はそうしたでしょう。

もしその答えが「何もしない」のであれば、その違和感を受け入れることに力を尽くしたと思います。

答えがやってきた!



祈りを始めてから数日後、ボーっとしていたら(いつもボーっとしているんですが(^^;)頭の中に「神の、、、」という言葉と共に、6、7年ほど前に読んだ本の表紙が浮かびました。

「この本なのだろうか?」という疑惑と共に「随分前に手放してしまった、、、値段が高い本なのに、、、(゚ー゚;」という思いがでてきました。

でも祈ったのは私です、、、(゚ー゚;再度本を購入することにしました。

ただ「神の」の後のタイトルがわからずに、いろいろなキーワードを入れて検索をかけるも、違う本がでてきてしまいました。

困った私は再度祈り、、、

すると「ゲイリー」という著者の名前が頭に浮かびました。

この本は、著者と二人のアセンデットマスターとの会話を記録した本なので、ゲイリーという名前が本の中に何度も何度も出てくるために、呼び起こしやすい記憶だったのだと思います。

そうして無事にタイトルをゲットした私は、「本を手放さなければよかったな、、、(だって高いんだもん、、、)」というちょっとした後悔とともに、600ページ程度あるその本を購入することになったのです。

非二元と純粋非二元(pure nonduality)の違いとは?その2へ続く

ちなみに、本のタイトルはこちらです。

「神の使者 ゲイリー・レナード著」

このカテゴリーに該当する記事はありません。